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機の深信 [『唯信鈔文意』を読む(その153)]

(2)機の深信

 「五逆の人ですら往生できるのだから、そうではないわれらはもちろん往生できる」とは常識の人・聖覚の面目躍如です。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と言い放つ親鸞との違いがくっきりと浮き立ちますが、ここで考えたいのは両者の違いの根っ子にあるものです。
 「機の深信」の問題です。聖覚も深心を取り上げるに当たって善導の二種深信を持ち出しますが、「機の深信」(こんな罪深い自分は救われるはずはないと信ずる)と「法の深信」(こんな罪深い自分が救われると信ずる)の関係をどのように見るか、ここに聖覚と親鸞の間の違いの根っ子があります。
 聖覚においては、「機の深信」がある〈にもかかわらず〉「法の深信」があるという感じですが、親鸞では「機の深信」がある〈からこそ〉「法の深信」があるとなります。
 聖覚にとって「機の深信」は「法の深信」の障りになるものと言ってもいい。さきほど「いかでかこのみをむかへたまはむ」という聖覚のことばを上げましたが、これは信心を妨げる疑いのこころとして出されているのです。だからこそ聖覚は「仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪のみなればすくわれがたしとおもふべき」と、この疑いを一喝するのです。
 ところが親鸞にとって「いかでかこのみをむかへたまはむ」という「機の深信」がある〈からこそ〉「こんな罪深い自分が救われる」という「法の深信」があるのです。「機の深信」のないところには「法の深信」もない。ここにおいても聖覚の方が常識的で理解を得やすく、親鸞の言っていることは普通の感覚と摩擦をおこしてなかなか納得できません。

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