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「わたし」が我執 [『唯信鈔文意』を読む(その156)]

(5)「わたし」が我執

 我執という悪からスタートしたはずなのに、それを悟りや往生で乗り越えようとしているうちに、スタート地点が見失われてしまう。これは先を目指して必死に前進しているときよく起こることで、前進することそのものが自己目的化していくのです。その意味では、親鸞が悪に主軸を据えたことは、釈迦仏教の原点に戻ったと見ることもできます。
 己れの内なる悪をじっと見つめる。
 前にこう言いました、「わたし」とは生きんかなとする意志であると。「わたし」が生きんかなとする意志をもっているのではありません、「わたし」が生きんかなとする意志そのものです。そして、生きんかなとする意志こそ我執に他なりません。我執とは自己に執着することですが、もっと分かりやすく言えば、どこまでも生きようとする意志でしょう。ですから「わたし」とは我執ということです。
 再度いいます、「わたし」が我執をもっているのではありません、「わたし」が我執そのものです。
 としますと「わたし」が我執を否定することはできません。それは「わたし」が「わたし」を否定することであり、論理的に不可能なことです。「わたし」が何をするにせよ、そこには「わたし」がいますから、「わたし」が「わたし」を否定するというのは論理矛盾と言わなければなりません。もし無我の悟りが我執を乗り越えることであるとしますと、それは不可能を求めるものです。麻原彰晃が空中浮遊を求めたのも理不尽ですが、「わたし」を否定するというのはもう比較を絶して理不尽なことです。
 ここに他力のほんとうの出番があります。

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