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無我とは他力の気づき [『唯信鈔文意』を読む(その157)]

(6)無我とは他力の気づき

 「わたし」が「わたし」を否定することはできないなら、それを仏の本願力に求めようというのも他力ではありません。仏の本願力に頼るとしても、それは所詮「わたし」が「わたし」を否定しようとしていることに他なりません。「わたし」が仏の本願力を借りて「わたし」を否定しようとしているのですから。
 仏の本願力は「求める」ものではないということ。仏の本願力は、求めもしないのに「与えられている」ものであるということ。これが他力のほんとうの意味です。「わたし」は我執=悪そのものであるということ、これはすでにしてひとつの気づきです。この気づきが求めもしないのに「与えられている」のです。誰も好きこのんで己れの悪を覗きこんだりしません。求めもしないのに、頼んでもいないのに、向こうから気づかされるのです。
 そして、不可思議なるかな、そのとき「わたし」の底が割れて、その深淵に仏の本願力が姿をあらわす。「わたし」を否定することはできません、他力を求めることもできません。でも、求めもしないのに「わたし」の底が割れ、頼んでもいないのに他力が姿を見せているのです。
 ここまできまして、無我とは他力に他ならないことが再確認できます。無我とは「わたし」を否定することではありません。あるときふと「わたし」の底が割れていることに気づく、これが無我です。そしてこれが他力です。どんなときに「わたし」の底が割れていることに気づくかといいますと、「わたし」とは我執=悪であることに気づかされるときです。
 かくして「他力」と「悪」はどちらも気づきとして切っても切り離せない関係にあることが明らかになったと思います。「他力」の気づきが「法の深信」であり、「悪」の気づきが「機の深信」です。この二つはひとつの気づきです。

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