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ないし十念 [『唯信鈔文意』を読む(その159)]

(8)ないし十念
 
 今生の悟りにしても来生の往生にしても、「これから先」に目標を設定して、そこを目指しています。それに対して悪の気づきは「もうすでに」おこっていることですから、ベクトルの向きが逆さまです。だから聖道門にせよ浄土門にせよ、「これから先」を目指している人は、どうしても己の悪に目が向かないのです。
 聖覚が、「いかでかこのみをむかへたまはむ」と疑う人は仏の願力を疑っているのだと言うのを聞きますと、あゝ、この人は「わたし」が悪そのものであることに気づいていないのではないだろうかと思ってしまいます。そしてそれは同時に「わたし」の破れが他力であることにも気づいていないということになります。
 「これから」往生を目指すのと、「もうすでに」往生していることに気づくのと、ここに聖覚的なものと親鸞的なものとの分岐点があります。
 それは第十八願の「ないし十念」をどう理解するかにおいても見過ごせない差異として現われてきます。聖覚がまず取り上げるのは、この十念が「憶念か称名か」という論点です。心の中に仏を思い念ずるのか、それとも口に「南無阿弥陀仏」と称えるのかということです(これは『観経』をどうとらえるかの核心です)。
 聖覚は『観経』の下品下生(げぼんげしょう、人間の品性を9段階に分けたときの最下層)の段に「もし念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏を称うべし」とあるのを根拠に、仏の名を称えることだとします。この論点についてはあとで(次回)話題となりますので、そこまでとっておきましょう。
 もうひとつの論点が「一念か多念か」です。

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