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念仏できない [『唯信鈔文意』を読む(その163)]

(12)念仏できない

 こんなふうに言われた方がいます、「わたしはお寺で皆さんと一緒に念仏するのは問題なくできるのですが、一人で念仏しようとするとどうにもうまくできないのです」と。その方はこんな短歌を詠まれています。「親鸞に 揺さぶらるるも 南無阿弥陀 声に出でざり 半端者われ」。
 素直に南無阿弥陀仏の声が出てこないのは、やはりまだ「半端者」なんだという感覚に苦しんでおられます。親鸞の言うことに頷くことができたら、おのずと南無阿弥陀仏の声が出てくるはず、そうでないということは半端者だと。
 ここには「念仏するかしないかは決定的に大切なことだ」という抜きがたい思いがあります。もし「念仏すれば往生できる」としますと、念仏できないのは信心が足りないのだ、となります。信心が足りず、その故に念仏できず、その結果往生できない、と自分を責め立てることになるのです。
 でも、「念仏すれば救われる」のでしょうか。そうじゃなくて「もうすでに救われているから念仏する」のではないのでしょうか。
 その方は仏壇を前に「どうして念仏できないのだろう」と悩んでおられます。「念仏しなくちゃ」と思うのに、何かが引っかかって声が素直に出てくれない。「眠らなくちゃ」に似ています。「眠らなくちゃ」と思えば思うほど眠れない。そんなふうに思わなければ、すっと眠れるのに、「眠らなくちゃ」と頑張るものだから余計眠れません。
 同じように「念仏しなくちゃ」にこだわりますと、喉がこわばってますます念仏できません。どうして「念仏しなくちゃ」にこだわるかと言いますと、「ここを先途」と思うからです。ここが勝負の分かれ道で、これですべてが決まると思うからです。しかし、念仏は「念仏しなくちゃ」と思ってするものではありません。それでは自力の念仏です。

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