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念と声とはひとつこころ [『唯信鈔文意』を読む(その169)]

(4)念と声とはひとつこころ

 「こちらから」呼びかけるのではなく「向こうから」聞こえてくる―ここに親鸞のコペルニクス的転回があります。ではわれらは何をするのか。何をするでもありません、ただほれぼれと聞くだけです。聞こうとして聞くのではありません、おのずと聞こえてくる声に身を浸すだけ。
 「念ずる」ということばからは、こころを何かで満たそうとするイメージが膨れ上がります。「仏を念ずる」というのは、こころを仏で満たすことでしょう。ですからこころの中に仏がいます。ところが親鸞にとって、反対に仏の中にわれらがいるということ、そのことにふと気づくことが「仏を念ずる」ことです。それも気づこうとして気づくのではありません、思いがけず気づかされるのです。「もうすでに」気づいてしまっているのです。
 親鸞にとって「念」は「われらの行」ではないことが明らかでしょう。それは如来から賜るものです。
 では「称」はどうか。こちらは「口で名号を称える」のですから、どう考えてもわれらが行ずることだと思います。これが「われらの行」でないとは考えられない。ところが親鸞にとって、これまた如来から賜るものです。
 もちろん、名号を称えようと思って称えることはできます。あるいは称えなければならないから称えることもあるでしょう。朝夕、勤行として称える念仏はそういうものです。仏壇に向かって「なむあみだぶつ」と称えながら、「今宵は酒にするか、ビールにするか」などと考えています。それはそれで意味のあることでしょうが、でも本願にいう「乃至十念」ではありません。
 本願の「乃至十念」は「念と声とはひとつこころ」だからです。

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