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仏恩報尽の念仏 [『唯信鈔文意』を読む(その170)]

(5)仏恩報尽の念仏

 親鸞にとって「念」とは、われらが仏を念ずるのではなく、仏がわれらを(「帰っておいで」と)念じていることでした。そのことにふと気づくことでした。仏がわれらを念じていることに気づいたことは、それだけに収まることができず、喜びとなって口からあふれ出ていかざるをえません。それが「称」です。
 これが「念と声とはひとつこころ」という意味に他なりません。そのとき称えようとして称えているのではありません、称えなければならないと思って称えているのでもありません。「念」がおのずと「称」となってあふれていくのです。
 ここでもういちど先の「一念か多念か」の議論に戻りますと、親鸞は「多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめむ」と言っていました。「称」は数ではないということです。親鸞はそれ以上具体的なことを言ってくれませんが、蓮如は親鸞の意を汲むかたちで噛んで含めるように教えてくれます。
 善導の「上尽一形、下至一念(かみ一形-一生-を尽くし、しも一念に至るまで)」ということばを引いて、こう言います、「『下至一念』というは、信心決定のすがたなり。『上尽一形』は、仏恩報尽の念仏なり」(『第一帖』第四通)と。意味は明らかでしょう、信心が定まるのは一念だが、その後の念仏は仏恩に感謝してのものだということです。
 ちょっと個人的なことを言いますと、ぼくはこれまで蓮如の「仏恩報尽の念仏」ということばに距離をおいてきました。念仏は「ためにする」ものでないとすれば、「仏恩報尽のため」としても、それは念仏の本旨から外れるのではないかというこだわりをもってきたのです。しかしこの頃はそこまでこだわらなくていいのではないかと思うようになりました。

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