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『唯信鈔文意』を読む(その171) ブログトップ

本文22 [『唯信鈔文意』を読む(その171)]

(6)本文22

 本願に遇えた喜びが口をついて出る念仏は一念でしょう。その意味では一念義が正しい。でもだからといって、行住坐臥に称える念仏が無意味ということにはならないでしょう。それは最初の一念とは肌合いが異なりますが、それはそれで違うよさがあるのではないでしょうか。
 最初の一念は生涯消えることはありません。安心は一度与えられたら死ぬまで有効です。それが「もうすでに」の持ち味でしょう。でも、最初の一念は日々の雑事にとりまぎれていつしか忘れられてしまうものです。消えてしまうわけではありませんが、いろいろなものに覆われて隠れてしまうのです。
 だからこそ朝夕の勤行の意味があるのではないでしょうか。朝起きて、さわやかな気持ちで「南無阿弥陀仏」と称える。これは最初の一念を改めて嚙みしめることです。寝る前にまた「南無阿弥陀仏」と称えるのも、その日の雑念を振り払い、最初の一念に感謝することでしょう。
 どちらも、称えようと思って称える念仏ですから、賜りたる念仏とは言えません。でも、それはそれで意味のある念仏だと思えるようになったのです。
 さて、最後の「あとがき」に当たる部分です。

 ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きわまりなきゆへに、やすくこころえさせむとて、同じことをたびたびとりかへしとりかへしかきつけたり。こころあらんひとはおかしくおもふべし。あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすじにおろかなるものをこころえやすからむとてしるせるなり。

 (現代語訳) 田舎の人々が、文字の意味も知らず、教えについても愚かでよく知りませんから、理解しやすいようにと思い、同じことを繰り返し書き付けました。ものの分かった人はおかしく思うでしょうし、嘲るかもしれません。しかし、どんなに謗りを受けようと、ただ一筋に愚かな人たちが理解しやすいようにと思って書いた次第です。

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