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差異と同一(つづき) [『唯信鈔文意』を読む(その174)]

(9)差異と同一(つづき)

 これはきっと生きものとしての生存戦略が関係しているのでしょう。どんな原始的な生きものでも、これは食べられるものかどうかの違いに敏感でなければ直ちに死につながります。同じようなものだからどれでもいいやというわけにはいかないのです。
 眼は違いに行き、同じことには向きにくい。学問の営みもそれで貫かれています。AとBはどこがどう違うかを細かく詮索すること、突きつめればこれが学問というものです。そして自分の研究はこれまでの説とどの点でどのように違うかが明らかでないと学説としての価値がありません。
 AとBはおおよそ同じである、では話になりませんし、自分の研究はこれまでの通説とさほど変らない、のでは何のために研究しているのかと言われます。ぼくは親鸞研究家などと大層に名乗っていますが、かりそめにも研究家の看板を掲げる以上、親鸞は法然とどこがどう違うかをはっきりさせなければなりません。おおよそ同じである、では研究家の名が泣きます。
 そんな感覚で親鸞を見ますと、自分はこれまでの浄土思想家とどう違うかという言い方を全くしないことに戸惑います。どう見ても親鸞と七高僧たちとが同じとは思えません。親鸞自身もその違いを感じていないはずはありません。でもそのことに一切言及しない。これは一体何でしょう。
 前に(「はじめての『教行信証』)、『教行信証』という書物を読もうとして躓くのはどうしてかを考えたことがあります。結論をひとことで言いますと、それはこの書物を学問の書として読もうとするからということです。親鸞はどの経典にはこう書いてある、誰それはこう言っていると言うばかりで、自分がどう考えるかを一向に言わないことに戸惑うのです。

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