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真理はもうすでに [『唯信鈔文意』を読む(その175)]

(10)真理はもうすでに

 学問の書なら、誰それはこう言っているが、自分はこう考えると言うものです。そこに独自性があるから学術書としての価値が認められる。『教行信証』もそういう書物だと思って読むものですから、「あれ、これは何だろう」と思います。そして「これを読むことにどんな意味があるのだろうか」と疑いが広がっていくのです。
 学術書は「自分はかくかくの真理を得た」と書くものです。しかし親鸞はそんなことは一切言わずに「真理はすでに説かれている」と言うのです。親鸞としては「自分はそれに気づいただけです、あなたがたもここに真理があることに気づいてほしい」ということでしょう。これが親鸞のスタンスで、宗教というのはみなそういうものかもしれません。
 「これから」真理を求めようとするのが学問で、「もうすでに」真理は与えられている、ただそれに気づくだけとするのが宗教。
 法然と親鸞に戻りますと、親鸞は法然を通じて、もうすでに与えられている真理に気づかせてもらったのです。だからこそ「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべから」です。なぜかと言って、もうすでに真理のなかにいるのですから。もうすでに救われたのですから。
 なるほど法然の『選択集』にはしっくりこないところがあるでしょう。自分ならこう言うだろうということもあるでしょう。でも、そんなことは南無阿弥陀仏の真理に気づかせてもらったことからすれば何ほどのこともありません。大事なのは、法然から南無阿弥陀仏の真理を手渡されたこと、これです。

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