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生きていていいのか? [『唯信鈔文意』を読む(その181)]

(16)生きていていいのか?

 ぼくらの周りの動物たちとぼくらの違いは、「生きんかな」としていることを意識するかどうかというこの一点です。彼らにはそんな意識がないからこそ、その一途さを美しいと感じるのではないでしょうか。ぼくらは孝か不幸か、そのことにふと気づくことがあります。
 ぼくらは普段、空気が存在することを意識していません。当たり前すぎて意識に上らないのです。ではどんなときにそれを意識するかと言いますと、山登りをしていて息が苦しくなったようなときです。あれ、空気が薄いのではないかと、その存在を改めて意識するのです。
 「生きんかな」も同じで、「生きようとしている」こと、「生きたいと願っている」ことに疑問符がつくことがあります。これまで当たり前のように「生きようとしてきた」が、「生きたいと願う」のは当然だと思ってきたが、それでいいのだろうか。これからもこのまま「生きようとして」いいのだろうか、「生きたいと願って」いいのだろうか、と。そんなとき、この「生きんかな」の存在に気づくのです。
 この気づきに焦点を当ててみましょう。これはいま見ましたように、「問い」としての気づきです。空気は、それが「あるのだろうか?」というかたちで意識されるように、「生きんかな」も、「生きたいと願っていいのだろうか?」というかたちで気づきが起こります。
 大津波で家ごと波に飲まれ、家族が浚われてしまい、自分だけが生き残ってしまった。この「生き残ってしまった」という言い回しに悲しみが凝縮されています。そしてここには「このまま生きていていいのか?」という悲痛な問いが孕まれています。いままで生きようするのは当たり前だったが、これからも生きようとしていいのだろうか、こんな問いのかたちで「生きんかな」は気づかれます。

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