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『一念多念文意』を読む(その5) ブログトップ

隆寛のたち位置 [『一念多念文意』を読む(その5)]

(5)隆寛のたち位置

 どうして「一念か多念か」と争うことが本願の教えに背くことになるのかという本格的な議論をこの短い書物に期待することはできませんが、それでも隆寛の思いは『分別事』の最初の部分からほのみえてきます。ここに全体の基調があらわされていると言えますから、読んでおきたいと思います。

 多念は、すなはち一念のつもり(積もり)なり。そのゆへは、人のいのちは日々に今日やかぎりとおもひ、時時にただいまやおはりとおもふべし。無常のさかひは、むまれてあだなるかりのすがたなれば、かぜのまへのともし火をみても、草のうへのつゆによそへても、いきのとどまり命のたへむことは、かしこきもおろかなるも、ひとりとしてのがるべきかたなし。このゆへにただいまにてもまなことぢはつるものならば、弥陀の本願にすくはれて、極楽浄土へむかへられたてまつらんとおもひて、南無阿弥陀仏ととなふる事は、一念無上の功徳をたのみ、一念広大の利益をあふぐゆへなり。しかるに命ののびもてゆくゆへに、この一念が二念・三念にもなり、十念・二十念にもなりゆくなり。この一念、かやうにかさなりつもれば、一時にもなり二時にもなり、一日にも二日にも一月にも二月にもなり、一年に二年にも十年にも二十年にも七十年にも八十年にもなりゆくことにてあれば、こはいかにしていきたるらん、ただいまや、この世のおはりにてあるらんと、おもふことはりが、一定したる身のありさまなるによりて、善導は「恒願一切臨終時、勝縁勝境悉現前(こうがんいっさいりんじゅうじ、しょうえんしょうきょうしつげんぜん、つねに願はくは一切臨終の時、勝縁・勝境ことごとく現前せん)」とねがはしめて、念々におこたらず、まさしく往生せんずる其時まで、念仏すべきよしを、ねんごろにすすめたまひたるなり。

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