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『一念多念文意』を読む(その7) ブログトップ

はかなさ [『一念多念文意』を読む(その7)]

(7)はかなさ

 無常は言うまでもなく仏教の根本思想で、この世は縁起というあり方をしており、常なるものはひとつとしてないという見方です。それが「はかなさ」という情感と結びついて、中世文学の中心テーマとなったわけですが、さてしかし釈迦の説く無常と、『方丈記』や『平家物語』の無常は同じものでしょうか。「常なるものはない」と見る点では同じでも、何か違う感性のような気がしてならないのです。
 たとえば親鸞。彼の書くものの中に『方丈記』や『平家物語』の無常は一切ないと断言していいと思います。あるいは道元。ぼくは道元についてはっきりものを言えるほど読めているわけではありませんが、『正法眼蔵』に「はかなさ」という意味の無常がないことは明らかです。
 浄土の教えとこの無常との間に親縁性があるのは確かでしょう。平安貴族たちが浄土の教えにひかれたのは、この無常の思いからに違いありません。「厭離穢土、欣求浄土」ということばがそれを何よりもよくあらわしています。穢土というのは、おのれの身がいかに罪悪にまみれているかということではなく(それが親鸞的感性ですが)、「いきのとどまり命のたへむことは、かしこきもおろかなるも、ひとりとしてのがるべきかたなし」(隆寛)ということです。
 そんな穢土を厭い、安楽の浄土を願う、これが当時の浄土教の主流だったと言っていいと思います。
 しかし親鸞はまるで違います。親鸞はたくさんの和讃を残していますが、吉本隆明が鋭く指摘していますように、「親鸞の和讃の性格は、ひとことで〈非詩〉的」です。吉本が〈非詩〉ということばで言っているのは、王朝貴族のものするような和歌的ではないということ、いまの文脈で言えば、「もののあはれ」や「はかなさ」という意味の無常とは無縁であるということです。

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