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現世の肯定 [『一念多念文意』を読む(その8)]

(8)現世の肯定

 親鸞にとっての念仏は、この世の無常に「はかなさ」を感じて、後生をたのみ念仏するという類いのものではありません。では親鸞の念仏とは何か。それは本願に遇えた喜びの表出に他なりません。「帰っておいで」という声が聞こえて、喜びのなかで「はい、ただいま」と応じる。ここには厭世感はありません。誤解を恐れずに言えば、現世の肯定です。ニーチェ流に言えば「これが人生か、ならばもう一度!」という存在肯定です。
 隆寛の文章に見られる無常観についてお話してきましたが、もうひとつ「臨終の念仏」という特徴も見逃すことはできません。
 臨終に称える念仏こそ窮極の一念であるという感覚です。「ただいまにてもまなことぢはつるものならば、弥陀の本願にすくはれて、極楽浄土へむかへられたてまつらんとおもひて、南無阿弥陀仏ととなふる」、これが純一無雑な念仏であるとする感性、これも浄土教の伝統の中で培われてきたものと言えます。普段の念仏には雑念が混ざる(現世利益を願ったりする)ものだが、「ただいまにてもまなことじはつる」ときには、こころの底から後生を願うから、そのときに称える念仏こそほんものの念仏だということです。
 かたや親鸞の念仏は「平生の念仏」です。本願に遇えたそのときに称える念仏、「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえた」喜びの念仏、これが親鸞の一念です。この一念があれば、身は穢土にあっても、こころはすでに浄土にいるのです。そこにはこの世を無常と悲嘆する姿勢はありません。穢土が穢土であることを認めつつ、そしてそのことに深く悲しみつつ、しかし「すべてよし」と肯定する姿、これが親鸞の念仏ではないでしょうか。

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