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『一念多念文意』を読む(その10) ブログトップ

恒と常 [『一念多念文意』を読む(その10)]

(10)恒と常

 隆寛は、いまこそ臨終だと思い、臨終の一念を重ねていくことでおのずと多念となると説き、その流れで「恒願一切臨終時、勝縁勝境悉現前(つねに願はくは一切臨終の時、勝縁・勝境ことごとく現前せん)」という善導の文を引いたのでした。
 一時も臨終のことを忘れずに、そのときに来迎に与れるよう願いながら「念々におこたらず」念仏しなければならないというのです。隆寛は一念・多念の争いは無意味だと言うのですが、基本は多念義の立場にあることがここから透けて見えます。親鸞はこの善導の文を注釈するのですが、そこにはおのずと親鸞らしさが滲み出て、隆寛との微妙な違いが浮き上がります。
 親鸞は「恒」と「常」を区別しています。その部分を再録しておきますと、「いま、つねにといふは、たえぬこころなり。おりにしたがふて、ときどきも、ねがへといふなり。いま、つねにといふは、常の義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり。ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを、常といふなり」とあります。  
 「恒」は「おりにしたがふて、ときどきも」ということだが、「常」は「ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬ」ことだと言い、そこには見逃しがたい違いがあるというのですが、この二つの文字には親鸞が言うような意味の違いがあるのでしょうか。
 漢和辞典を調べてみますと、「恒」は「こころが一定して変らないこと」とあり、「常」はもとは長い布のことで、そこから「長く変らないこと」をあらわすとあります。これだけでは親鸞の言うことが適当かどうかは判断できません。
 親鸞の言いたいのは、われらには「ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬ」などということはありえないということでしょう。

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