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おりにしたがふて、ときどきも [『一念多念文意』を読む(その13)]

(13)おりにしたがふて、ときどきも

 その歓談の場でこんなことも話題になりました。ぼくが、「本願に遇うことができ『あゝ、このままで救われている』と喜べるようになると、『どうしようもない自分だけど、少しはましな生き方をしよう』と思うのではないか」と言いましたところ、ある方が「悪いことをしてやろうと思うことはないだろうが、よいことをする力になるかどうか」と疑問を呈されました。「救われている」という喜びに自足してしまい、何かよいことをしようという気になるだろうか、ということだと思います。
 確かに、勇んで「世のため、人のため」に尽くそうというふうにはならないかもしれません。よいことをするどころか、「少しはましな人間になろう」と思った直後につまらないことで腹を立てているかもしれません。ちっとも変っていない自分に呆れるしかありませんが、でもそんな自分の頭をひとつポカンとやる程度には変っているでしょう。「ときとしてたえず」よいことをするのはとてもできませんが、「おりにしたがふて、ときどきも」ならできると思うのです。
 そして、弁解になっていないことを願いながら言うのですが、「ときとしてたえず」よいことを「しなければならない」と肩肘はりますと、往々にしてものごとが煮詰まってしまい、意図したのとは逆の結果を招くのではないかと思うのです。教師時代に問題行動を繰り返す生徒を「立ち直らせてやろう」として空回りした苦い経験を思い出します。「担任として彼を更生させなければ」という思いでやることがすべて裏目に出てしまう。そもそも、こんな自分が彼を更生させるなどということができるわけがありません。せいぜい「おりにしたがふて、ときどきも」彼の傍にいてやることぐらいしかできないのですから。

               (第1回 完)

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