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『一念多念文意』を読む(その15) ブログトップ

聞くと見る [『一念多念文意』を読む(その15)]

(2)聞くと見る

 先回のところで隆寛は「多念は一念のつもりなり」とし、やれ一念だ、やれ多念だと争うのは無意味であると述べていました。そして「ただいまにてもまなことぢはつるもの」だから、「念々におこたらず、まさしく往生せんずる其時まで、念仏すべき」と説いてきたのですが、今回はそれに続いて、「念々におこたらず」とはいうものの、「ひとへに多念にてあるべし」と言うのでは経文に背くことになるとして、第十八願成就文を引くのです。
 隆寛はただこの文を引くだけで何の解説もしてくれませんので、親鸞が懇切丁寧な注釈を施しているのです。この成就文には浄土の教えの核となることが詰まっているのですが、それを親鸞自身が噛んでふくめるように解説していますので、とりわけ重要なところと言えます。かなり長い文になりますので、これを4回に分けてじっくり味わっていきたいと思います。今回のところは、この成就文を一通り注釈する部分ですが、それをさらに二つに分けて読んでいきます。
 まずは前半の「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念」についてです。「『聞其名号』といふは、本願の名号をきくとのたまへり」という文からスタートしましょう。
 いま道元を読んでいるのですが、道元という人は「見る人」だとつくづく感じます。なにしろ彼の主著は『正法〈眼〉蔵』です。それに対して親鸞は「聞く人」。これは一般に禅と浄土のコントラストと言えるのではないでしょうか。浄土の教えでもっとも重要なタームをひとつだけ上げよと言われたら、やはり本願でしょう。そして本願は見るものではありません、聞くものです、いや、聞こえてくるもの。本願が聞こえることが救いに他ならないというのが浄土の教えのエッセンスです。
 『教行信証』の序に「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」とありますが、この「聞く」ことに浄土の教えの鍵があります。

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