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ただの受身と使役の受身 [『一念多念文意』を読む(その27)]

(14)ただの受身と使役の受身

 (事情があり、4日間更新できませんでした。再開します。)
 法蔵はもちろんわれら衆生の往生を願ってくれています。それが本〈願〉ということです。でもただ願ってくれているだけでは力になりません。本願が本願力になるためにはわれら自身が往生を願わなければなりません。ですから法蔵は、われらの往生を願うだけでなく、われら自身が往生を願うように仕向けてくれるのです。故郷の親が子どもに「帰っておいで」と願うだけでは力になりません。子ども自身が「帰りたい」と願ってはじめて親の願いが通じたことになります。ですから親はさまざまな手を尽くして子ども自身がそう願うように仕向けるのです。
 ここに使役の役割があります。
 これは前にもお話したことがありますが、ぼくがこの講座で他力とは何かについて汗をかきながら一生懸命説明したあと、あるご婦人が「他力ってそんなに難しいことでしょうか。心臓は休みなく動いてくれていますし、胃も頼みもしないのに消化してくれています。これが他力ではないですか」と言われたことがあります。ぼくは「どうも違うな」と感じながら、どう違うかことばにできず、「はあ」と情けない反応しかできなかったのですが、いまなら言えます、「いや、それは他力ではありません」と。
 他力はもちろん他の力を受けるということですが、ただの受身ではありません。雨が降り、風が吹くのはぼくらには如何ともしがたい。ただそれを受けるしかありません。これが純粋の受身です。しかし他力とは、ぼくら自身がそうしたいと思っていることが、実は他の力がそう「せしめている」ということです。ぼくらから言えば、そう「せしめられている」ということ。ここに「ただの受身」と「使役の受身」の違いがあります。「願われる」と「願うようにさせられる」の違いです。

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