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「願われる」と「願うようにさせられる」 [『一念多念文意』を読む(その28)]

(15)「願われる」と「願うようにさせられる」

 この二つはどう違うか、改めて考えてみましょう。「願われる」ことは、ぼくら自身の意向とは無関係です。しばしば本人の願わないことが周りから願われます。本人はオリンピックでメダルを取ることなど願っていないのに、周囲から強く願われる。迷惑なことです。しかし「願うようにさせられる」場合、そうさせられていることに気づいているかどうかはともかく、本人自身が是非そうしたいと願っています。周りの願いと本人の願いがぴたりと一致しています。
 ここまできまして先の戸惑いに戻ることができます。往生を願うのも、本願を信じるのも、名号を称えるのもみなわれらなのに、願生も、信心も、念仏も、何から何まで全部「向こうから」やってくるということに対する戸惑いでした。どうにも納得いかないという思い。もしこの「向こうから」がただの受身でしたら、つまり、雨が降り、風が吹くようなものでしたら、こう言いたくなります、「この“わたし”はどうなるんだ」と。しかしこれが「使役の受身」でしたら、紛れもなくこの“わたし”が願生し、信心し、念仏するのです。それは天地がひっくり返っても間違いありません。でも、同時に弥陀からそう仕向けられているのです。そのことにふと気づく。
 さて「願生彼国」につづいて「即得往生」です。往生を願ったそのとき(即)、往生を得るというところです。この「得」について親鸞は「うべきことをえたりといふ」と言い換えますが、この表現の妙を改めて味わいたいと思います。すでに同じ表現がありました。「信心歓喜」の歓喜について「うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり」と述べていました。「これから」得るはずのこと(「うべきこと」)を、「もうすでに」得てしまった(「えたり」、「えてむず」)と言うのです。

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