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死者の声 [『一念多念文意』を読む(その40)]

(10)死者の声

 ナオ君の言うごとく「死んでいった人の気持ちなんか分かりっこない」なら、生きている人の気持ちも理解できないことにならないでしょうか。たしかに他者の痛みを自分の痛みのように感じることはできませんが、だからといって他者の痛みが理解できないことはありません。同じように、死者という他者が何を考えているかも「ひそかに心の底の方で」(宙太)聴き取ることができると思います。
 考えてみますと、ぼくらはいま親鸞の『一念多念文意』を読んでいるのですが、これも親鸞という死者の声を聞いているのではないでしょうか。親鸞の書くものを読んでいて強く感じるのは、彼自身が死者たちの声を聞いているということです。彼は経典や論釈を読んでいるのではなく、文字を通して聞こえてくる声をキャッチしているということ、いや、キャッチされていると言うべきでしょうか。
 本願も死者の声です。この声は特定の誰かの声というわけではなく、これまで生きて死んでいったあらゆる人たちの声ではないでしょうか。それが法蔵菩薩の声として形象化された。ですからそれは十劫の昔の声とは言うものの、死者から生者に届けられ、その生者が死者となりまた次の生者に伝えられ、というように次々とリレーされてきた声というべきでしょう。
 その声が「ただいま」自分に届いた。いのちのはじめからずーっとリレーされてきた本願の声が「ただいま」聞こえたのですから、この「ただいま」には十劫の時間の重みが凝縮されているといわなければなりません。ちょうどぼくの68年のいのちには、38億年のいのちの全歴史が折り畳まれているように。

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