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時間という眼鏡 [『一念多念文意』を読む(その46)]

(4)時間という眼鏡

 で、この話、何がおもしろいかと言いますと、宇宙がいまから138億年前に始まったとすると、その前はどうなっているのかと問うのは、どんなに「わからんから聞くな」と禁止されても、やめることはできないということです。それは、「時間はあるとき突然はじまるのではなく、かならずその前がある」ということはアプリオリ(経験に先立つ)であることを意味します。
 ぼくらはそのことを経験から得たのではなく、経験に先立ってもっているということ。
 時間という眼鏡をかけて世界を見ているのです。ぼくらはどういうわけか手を二本もっています。一本でも三本でもない。ですから二本の手があるという前提でこの世界を生きていくしかありません。それと同じように、過去から未来へとつづく時間があるという前提でこの世界を見るしかないということです。
 だから、宇宙はあるとき始まったと言われたら、その前はどうなっていたのかと問わざるをえません。その前は時間そのものがなかったということは、「手はもともと二本ともなかった」ということに等しいのです。
 さてここで確認しなければならないのは、過去から未来へ直線的に流れる時間という眼鏡は、ぼくらが世界を「見る」ときにかけるということです。この眼鏡をかけなければ世界は朦朧として、その中で生きることがはなはだ困難になるでしょう。事故でとつぜん二本の手を失うと、どう対処していいか分からなくなるように。
 このように世界を「見る」ときにはこの眼鏡は不可欠ですが、ただ、見ようとしていないのに、ふとあることに「気づく」ことがあります。そのときこの眼鏡は用をなしていません。

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