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『一念多念文意』を読む(その48) ブログトップ

いづくんぞ思議すべきや [『一念多念文意』を読む(その48)]

(6)いづくんぞ思議すべきや

 しかし「気づき」があるからには、そこにすでに「わたし」がいるのではないか。「気づき」が先にあって、後で「わたし」が現れるというのはどういうことか。
 こんな場面を思い浮かべてください。道で知り合いとばったり遇うとき、まず「はっ」とし、そのあとで「あなたでしたか」と言う。まず気づき、しかる後に気づいたことに気づく。変てこな言い回しですが、そうとしか言いようがありません。気づきが二重になっているのです。
 まず気づきがやってきて、そのあと気づきがやってきたことに気づく。ですから「わたし」が気づくには違いないのですが、「わたし」が気づきをおこしているのではなく、気づきは向こうからやってきて、「わたし」としては気づかされたという感じです。そこが「見る」と大きく違うところです。
 「見る」ときは「わたし」が見ようとして見ています。そしてそのときにはかならず時間の眼鏡をかけています。ところがふと「気づく」ときは、時間の眼鏡をかけて見る前に、気づきがやってきているのです。
 そこでは、過去があり、そして現在があって、さらに未来があるという時間の秩序がもはや当てはまりません。現在がそのまま過去であり、そして現在がそのまま未来であるという普通には起こりえない事態が生起しているのです。
 本願に遇うことができたのは「ただいま」ですが、それは「もうすでに(十劫の昔から)」本願に包まれていることであり、さらに「これから」起こるはずの往生が「ただいま」起こってしまっているのです。
 まさに「いづくんぞ思議すべきや」です。

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