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たより [『一念多念文意』を読む(その50)]

(8)たより

 王日休の「念仏衆生便同弥勒」という文の「便」という文字から親鸞は思いがけない連想をします。この文の中では「便」は「すなわち」という読みしかありませんが、それから自由に「たより」という意味を引き出してくるのです。念仏(親鸞にとってそれは信心に他なりませんが)は往生を約束する「たより」だということです。これまで「気づき」は「わたし」がおこすのではなく、「向こうから」やってくるということを見てきましたが、それは「たより」に他ならないのです。
 源左にあるとき「源左たすくる」という「たより」(あるいは「おとずれ」)がやってきたのでした。それは「源左よ、おまえを助けるから心配することはないぞ」という「たより」ですが、その「たより」がくること自体が源左にとって「もうすでに」助けであり、源左はそのとき「もうすでに」救われたのです。ここに「たより」の力があります。「たより」は、それがくること自体が人を救う力となるということです。
 しかし呪いの「たより」だってあるぞと言われるかもしれません。もしそれが「おまえなんか死んでしまえ」などという「たより」ならこない方がいいではないかと。なるほど世の中には「ヘイトスピーチ」などというとんでもない「たより」もあります。大音量で「死ね」とか「出て行け」とか叫ばれる身になりますと、こんな「たより」は一刻も早くなくなってほしいに違いありません。しかし幸いなことに弥陀からの「たより」は「よきたより(福音)」です。生きていることを祝福してくれる「たより」です。
 なぜそんなことが言えるのか。法蔵菩薩は生きとし生けるものすべての救いを願って誓いを立てられたのだから、というのでは答えになりません。それではドグマにすぎない。

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