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本願ぼこり [『一念多念文意』を読む(その56)]

(14)本願ぼこり

 王日休の文に続いて、『観無量寿経』の結語(「流通分(るずうぶん)」と呼ばれます)からその一節が引かれます。念仏の人は「人中の分陀利華」というところです。分陀利華とは白蓮華のことで、泥水の中から美しく清らかな真っ白の華を咲かせるということから古来インドで尊ばれてきた花ですが、念仏の人も煩悩という泥水の中から清らかな念仏の華を咲かせていると讃えているのです。
 念仏の人は「弥勒とおなじ」とか「人中の分陀利華」とか誉められますと悪い気はしませんが、忘れていけないのは、これらの誉めことばはみな如来からくるということです。親鸞は、それをわざわざ「これは如来のみことに」と断っています。つまり、われらが自分のことを「弥勒とおなじ」とか「人中の分陀利華」と思うのはとんでもないということです。
 「本願ぼこり」からそのことを考えてみましょう。
 「本願ぼこり」とは、弥陀の本願は自分たち悪人のためにあるのだから、もう悪人であることを恐れることはない、堂々と造悪の生活をすればいいのだと考える人たち、そしてその考え方を指します。これはすでに法然在世の頃から目立つようになり、そのことが念仏弾圧の理由として掲げられるようになります。
 ここで造悪と言いますのは、仏教で戒められているさまざまな戒律を破ることで、法然が弟子たちに示した『七箇条制誡』に上げているのは女色、飲酒、肉食などですが、これらが公然と是認されることで社会秩序がゆるむことを聖俗の権力者たちは恐れたわけです。しかし世の凡夫たちの立場から見ますと、これまでこうした戒律を守らないと往生できないとされてきたのが、ただ念仏するだけでいいとなったのですから、その解放感はどれほど大きかったかと思います。「ああうれしや、こんな自分でも往生できるのだ」という喜びから羽目をはずす人たちが出てくるのも分からないではありません。
 ただ、こんな自分でも往生できると喜ぶことと、造悪を恐れることはないと思うこととの間には微妙ですが、しかし決定的な違いがあります。

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