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『一念多念文意』を読む(その59) ブログトップ

見まもるということ [『一念多念文意』を読む(その59)]

(2)見まもるということ

 本願成就文を弥陀の本願を信じたそのとき正定聚のくらいにつくと読んだ親鸞は、それをさまざまな角度から裏づけようとしてきたのですが、その締めくくりとして、弥陀は信心をえたものを「このよにてまもらせたまふ」(現生護念)ことを善導の文にもとづいて明らかにしていきます。
 長いので2段に分け、まずその前段です。
 善導の『観念法門』という書には念仏者に五種の利益があると説かれ、その一つが「現生護念」の利益です。親鸞はそのことを述べる文の「照」という文字について「ときをきらはず、ところをへだてず、ひまなく真実信心のひとおば、つねにてらしまもりたまふなり」と解説してくれますが、この「つねにてらしまもりたまふ」ということに思いを潜めてみたいと思います。
 見まもると言います。
 ウィニコットというイギリスの精神分析学者は「子どもは誰かと一緒のときひとりになれる」と印象的な言い方をしていますが、子どもは誰かに見まもられているという安心があれば、その人の姿が見えなくてもひとりで遊べるという意味です。「見る」とは「向こうから」勝手に何かの像がやってくることではありません、「こちらから」ひかりを当てるということです。実際にライトをつけるのではなくても、眼からある種のひかりが出ている。そのひかりに照らされるのが「見られる」ということです。
 子どもがひとりでいられるのは、その姿は見えなくても、誰かのひかりに照らされて見まもられていると感じることができるからです。

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