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『一念多念文意』を読む(その71) ブログトップ

本文10 [『一念多念文意』を読む(その71)]

(14)本文10

 首楞巌院(しゅりょうごんいん)の源信和尚のたまはく、「我亦在彼摂取之中(がやくざいひせっしゅちゅう)、煩悩障眼雖不能見(ぼんのうしょうげんすいふけん)、大悲無倦常照我身(だいひむけんじょうしょうがしん)」と。この文のこころは、われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえて、みたてまつることあたはずといゑども、大悲ものうきことなくして、つねにわがみをてらしたまふとのたまへるなり。

 (現代語訳) 源信和尚は「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲、ものうきことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と説かれています。この文の意味は、「わたしもまた弥陀の心光に摂取されているのですが、煩悩がわが眼を遮って、それを見ることができません。しかし弥陀の大悲はつねにわが身を照らしてくださっています」ということです。

 長く続いた一連の注釈の最後に親鸞は源信の『往生要集』から有名な一節を引きます。この文は『教行信証』行巻末の「正信偈」に取り込まれ、また信巻にも引用されています。親鸞の心に深く刻みつけられたものなのでしょう。味わい深い文です。見ることはできなくても、弥陀の心光はつねにわが身を照らしてくださっている。ここに現生正定聚・現生護念の本質が示されています。
 金子大栄氏はどこかで、若い頃は自分が阿弥陀仏の存在を証明しなければと思っていたが、そうではなく阿弥陀仏に自分の存在が証明されるのだということに気づいたという趣旨のことを述べています。阿弥陀仏の存在を証明するというのは、自分が阿弥陀仏を見るということです。自分の存在が証明されるというのは、自分が阿弥陀仏の光の中で見られているということです。阿弥陀仏をこちらから見ることはできませんが、向こうから自分が見られているのです。

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