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煩悩の内と外 [『一念多念文意』を読む(その72)]

(15)煩悩の内と外

 見ることはできなくても、見られていると感じる。
 「正信偈」に同じ趣旨のことばがあります。「摂取の心光、常に照護したもう。已に能く無明の闇を破すと雖も、貪愛瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。譬えば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇無きがごとし」。
 曇った日に太陽は雲に遮られて見えません。でも光は地上に届いていて明るい。そのように、阿弥陀仏は見ることはできませんが、でもその心光はぼくらに届いています。その光の中でぼくらは見られているのです。どうして阿弥陀仏を見ることができないかと言いますと、それは貪愛瞋憎の雲霧が天を覆っているからだと親鸞はいい、源信は煩悩が眼を遮るからといいます。同じことです。煩悩の殻の内に閉じこもっているから、その外が見えないということです。
 内と外。
 ぼくらは煩悩の内にいますから、その外は見えません。煩悩の外へ出ることができないからです。これは、いまのところ何らかの事情で出ることができないだけで、これから先その事情がなくなれば出ることができるということではありません。生きている限り、原理的に出られないのです。なぜかと言いますと、生きることは、息をすることであるように、煩悩を生きることだからです。死んだら…、どうなるかは分かりませんが、煩悩の外へ出て、見たことのない光景に出会えるかもしれません。
 ともあれ今は生きていますから、煩悩の外を見ることはできません。そして煩悩の外を見ることができないということは、自分の力では煩悩の内にいることも分からないということです。一般に、自分が内にいることが分かるのは、自ら外を見ることができるか、あるいは、外からやってきた人に外があることを教えてもらうときです。今の場合、自ら煩悩の外へ出ることはできませんから、何らかのかたちで外があることを外から示してもらわなければ、煩悩の内にいることを自覚することはできません。内も外もなく、ここが世界のすべてです。

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