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巧まざる狡知 [『一念多念文意』を読む(その77)]

(4)巧まざる狡知

 「わたし」の与り知らないところでことが決められ、「わたし」はそれに踊らされていることに対する不快感と言えばいいでしょうか。
 しかしこの不快感は「わたし」の意に反して踊らされるときに生まれます。「させられる」という使役の言い回しには、もともと「無理に」というニュアンスが含まれていますが、もし「させられる」ことが自分の意に沿う場合はどうでしょう。自分でもそうしたいと思っていたことが、自分の与り知らないところでそうするよう決められていたとしても、別に不快感は起こらないでしょう。その場合は、「わたし」が「したい」ことと、「わたし」が「させられる」ことが幸せな一致をみています。
 自分のしていることを継いでくれる子どもがほしいと思って、そのために必要な繁殖行動をとることが、実は遺伝子の「巧まざる狡知」であると知ったとしても、そこに不快感はないでしょう。それを「わたし」がしたいと思っていることをしていると見るか、「わたし」は遺伝子の狡知に操られているだけと見るかは、どちらでもいいのではないでしょうか。ドーキンスはそれをネッカーキューブのようなものだと言っていますが、どちらとも見ることができるということです。
 いや、たとえそれが自分のしたいことであるとしても、そうするようどこかで決められているのは不愉快だという人がいるかもしれません。「わたし」がそうすると決めることに意味があるのだ、と。心配ご無用です。あなたは間違いなく自分でそうすると決めてそうしているのであって、決してどこかで決められたことにそのまま従っているのではありません。でも同時に、それは結果から見ると、遺伝子の「巧まざる狡知」のままに動いているということなのです。どちらでもあるのです。


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