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『一念多念文意』を読む(その89) ブログトップ

本文12 [『一念多念文意』を読む(その89)]

(16)本文12

 『経』に「無諸邪聚及不定聚(むしょじゃじゅぎゅうふじょうじゅ)」といふは、「無」はなしといふ、「諸」はよろづのことといふことばなり。「邪聚」といふは、雑行雑修万善諸行(ぞうぎょうざっしゅまんぜんしょぎょう)のひと、報土にはなければなりといふなり。「及」はおよぶといふ。「不定聚」は自力の念仏・疑惑の念仏の人は、報土になしといふなり。正定聚の人のみ、真実報土にむまるればなり。
 この文どもは、これ一念の証文なり。おもふほどはあらはしまふさず、これにておしはからせたまふべきなり。

 (現代語訳) 「大経」に「無諸邪聚及不定聚(もろもろの邪聚および不定聚はなければなり)」とありますのは、「無」は「なし」ということで、「諸」は「すべての」ということばです。「邪聚」と言いますのは、念仏以外のさまざまな修行をおさめて往生しようとする人で、そのような人は浄土にはいませんということです。「及」とは「およぶ」ということです。「不定聚」とは、自力の念仏の人、疑惑の心を持ちながら念仏する人のことで、そのような人も浄土にはいませんというのです。正定聚の人だけが真実の浄土に生まれることができるのです。
 以上は、一念を説く文です。十分ではありませんが、これから推し量ってください。

 『無量寿経』巻末の「歓喜踊躍して乃至一念せん」の文を注釈した後、再び第11願成就文の後半が取り上げられます。再びと言いますのは、すでに本文4(第3回)で第11願成就文を引き合いに出していたからです。改めて親鸞の読みで上げておきますと、「それ衆生あ(り)て、かのくににむまれむとするものは、みなことごとく正定聚に住す。ゆへはいかんとなれば、かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚はなければなり」という文です。それにしても「歓喜踊躍して乃至一念せん」の文を取り上げた後、「もろもろの邪聚および不定聚はなければなり」の文が出てくるのはいかにも唐突です。一連の文章の底を貫いているのが「現生正定聚」ですから全然関係ないわけではありませんが、それでも前後のつながりのなさに戸惑います。

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