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『一念多念文意』を読む(その91) ブログトップ

「頑張る」ということ [『一念多念文意』を読む(その91)]

(18)「頑張る」ということ

 さてしかし、第19願の万善諸行の人や第20願の自力念仏の人は邪定聚や不定聚にとどまるとしますと、どうして弥陀の48願の中に第19願があり第20願があるのでしょう。それらの願には、万善諸行の人も自力念仏の人も往生できると書いてあるのですが、それをどう理解すればいいのでしょう。
 親鸞は化身土巻で、経文には表にあらわれた字義通りの意味(万善諸行や自力念仏によっても往生できるということ)と、その裏に隠されたほんとうの意味(そうした人たちも結局は万善諸行や自力念仏によってではなく本願他力に導かれて救われるということ)のふたつがあるのだと論じていくのですが、ここではその顕彰隠密の道筋を追うのはやめにして、親鸞の言わんとすることを日常の中で具体的に考えてみたいと思います。
 「頑張る」ということについてです。
 いま読んでいる本(『「ベテルの家」から吹く風』、いい本です)に、統合失調症の青年、松本寛君が紹介されています。彼は小さい頃から、いつも「がんばれ!」とはっぱをかける“幻聴さん”(「ベテルの家」では“幻聴さん”と友達のように呼んでいます)とつきあってきたそうです。彼がどれほど頑張ってきたか、ちょっと引用しておきます。
 「彼は、小学校時代に、陸上の走り幅跳びで全国八位の好成績をあげ、中学では、勉強だけでなく野球にも打ち込み、道内の野球の名門高校からスカウトを受けた。高校では、日夜猛練習に明け暮れ、補欠ながらもみごとに甲子園出場を果たした。しかし、すでに中学校のときにこう思っていたという。“病気になりたい。病気になったら、もうがんばらなくていい”と」。
 いかがでしょう、身につまされないでしょうか。彼ほどではなくても、みんな「とにかく頑張らなくちゃ」と思っているでしょう。生きるということは、生きようと頑張ることに他なりません。頑張るということがあるからこそ、目を見張るようなことが成しとげられるのであり、頑張るという文化のない世界に未来はないでしょう。

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