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『一念多念文意』を読む(その93) ブログトップ

本文13 [『一念多念文意』を読む(その93)]

           第7回 釈尊出世の本懐をあらわさむ

(1)本文13

 本願の文に「乃至十念」とちかひたまへり。すでに十念とちかひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはむや乃至とちかひたまへり、称名の徧数(へんじゅ)さだまらずといふことを。この誓願はすなわち易往易行(いおういぎょう)のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり。
 『阿弥陀経』に、一日乃至七日名号をとなふべしと、釈迦如来ときおきたまへる御のりなり。この経は無問自説経とまふす。この経をときたまひしに、如来にとひたてまつる人もなし。これすなわち釈尊出世の本懐をあらわさむとおぼしめすゆへに無問自説とまふすなり。弥陀選択の本願、十方諸仏の証誠(しょうじょう)、諸仏出世の素懐、恒沙如来(ごうじゃにょらい)の護念は、諸仏咨嗟(ししゃ)の御ちかひをあらはさむとなり。
 諸仏称名の誓願、『大経』にのたまはく、「設我得仏(せつがとくぶつ)、十方世界無量諸仏、不悉咨嗟称我名者(ふしつししゃしょうがみょうしゃ)、不取正覚」と願じたまへり。この悲願のこころは、「たとひわれ仏をえたらむに、十方世界無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずば、仏にならじ」とちかひたまへるなり。「咨嗟」とまふすは、よろづの仏にほめられたてまつるとまふす御ことなり。

 (現代語訳) 本願(第18願)の文に「乃至十念」と誓われています。すでに「十念」と誓われているのですから、一念に限らないと考えるべきです。まして「乃至」と誓われているのですから、称名の回数は定まっていないということです。この誓願は往きやすく行いやすい道をあらわし、また弥陀の慈悲の心のきわまりないことを示してくださっています。
 『阿弥陀経』に、一日ないし七日名号をとなえるべきであると、釈迦如来が説いてくださっています。この経を無問自説経と言います。と言いますのは、釈迦如来がこの経を説かれた時に、誰も如来に問いかけることはなかったからです。この経に釈迦がこの世にお出ましになった本懐をあらわそうとされているから、無問自説と言うのです。阿弥陀仏が本願を選んで立ててくださったこと、十方の諸仏が本願の真実を証明してくださっていること、諸仏が世にお出ましになった本懐はそこにあること、そして無数の如来が念仏するものをおまもりくださることがこの経に説かれているのですが、それらは諸仏咨嗟の誓い、つまり第十七願をあらわそうとしているのです。
 第十七の諸仏称名の願を『大経』は「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚をとらじ」と説いています。この悲願の意味は、「たとえ私が仏となることができましても、十方世界の無数の諸仏がことごとく私をほめたたえ、私の名を称えなければ、私は仏とはなりません」ということです。「咨嗟」と言いますのは、すべての仏にほめられるということです。

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