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釈迦出世の本懐は [『一念多念文意』を読む(その95)]

(3)釈迦出世の本懐は

 ゴータマも自分から無我にアクセスしたのではない(そんなことは原理的に不可能であることを繰り返し述べてきました)としますと、彼もそれを過去仏の声として聞いた、いや、「気がついたらすでに」聞こえていたに違いありません。ゴータマ後の仏弟子たちにとっての過去仏がゴータマ=ブッダであることは言うまでもありませんが、ゴータマ自身にとっての過去仏とは誰なのか。のちの仏弟子たちはそれを形象化する必要に迫られます。こうして生まれたのが阿弥陀仏という過去仏であったに違いありません。
 これだけの準備をした上で、今回の文章に入っていきたいと思います。
 ここでは隆寛が「多念をひがごと(まちがっている)とおもふまじき事」を述べんがために、第十八願の「乃至十念」の文言と、『阿弥陀経』の「一日乃至七日」の文言を取り上げているのを受けて、それらについて親鸞が注釈しているのですが、特に焦点を当てたいのは『阿弥陀経』についての親鸞の捉え方です。親鸞はこの経が「無問自説」であることに注目し、そこからこの経は「釈尊出世の本懐をあらわさむ」としているのだと述べているのですが、ここに眼を向けたいのです。
 どうして「無問自説」だから「釈尊出世の本懐をあらわさむ」ことになるのか、ということです。
 釈尊出世の本懐とは、言うまでもなく「弥陀選択の本願」を説くことに他なりません。釈尊がこの世におでましになったのは、弥陀の本願を衆生に説くためであるというのです。釈尊は自らが悟った無我の教えを衆生に説くのではなく、弥陀から聞かせてもらった本願を説くということ、ここに浄土教独特のスタイルがあります。仏教は釈尊に始まるのではありません。釈尊は過去仏としての弥陀から本願を聞かせてもらい、それをまた衆生にリレーしていくにすぎないのです。

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