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『一念多念文意』を読む(その96) ブログトップ

無問自説とは [『一念多念文意』を読む(その96)]

(4)無問自説とは

 では、無問自説とはどういうことかといいますと、『無量寿経』は阿難(アーナンダ)の問いに、『観無量寿経』は韋提希(ヴァイデーヒー)の問いにゴータマが答えるという形をとっていますが、『阿弥陀経』は誰からも問われることなく、いきなり舎利弗(シャーリプトラ)に語りかけます、「これより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏ありて、阿弥陀と号す」と。ここに親鸞は着目するのですが、さてしかし、このように「無問自説」の形をとることと、「釈尊出世の本懐をあらわさむ」こととはどう結びつくのでしょうか。
 仏教経典というのは、釈尊が弟子たちからさまざまな問いかけを受けて、それに答えるというスタイルをとるものです。それは『スッタニパータ』という最古の経典からそうで、問答形式をとっていない場合でも、弟子からの問いが背後に隠れています。伝説によりますと、ゴータマは悟りをひらいたのち、それを誰かに語ろうとはしなかったのですが、梵天からの勧請を受けてようやく教えを説きはじめたとされます。ここにすでに、問いかけを受けて、それに答えるという形式が見られます。
 問うのは弟子で、それに答えるのが釈尊という形式は、「如是我聞」という経典冒頭の常套句にも見ることができます。「かくのごとくわれきけり」と阿難が述べるのですが、ここに問いを受けて釈尊が語り、それを弟子が聞くという構図があります。これは仏教がブッダである釈尊の教えであるということからして当然のことですが、さてしかし、繰り返し述べていますように、釈尊の教えである「無我」は、釈尊がそれを自分でつかみ取ることができるわけではなく、彼もまた過去仏から聞かせてもらうしかありません。
 「如是我聞」はわれらにとってのことであると同時に、釈尊もまた「われかくのごとくきけり」であるということ、ここに問題を解く鍵があります。

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