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『一念多念文』を読む(その97) ブログトップ

如是我聞 [『一念多念文』を読む(その97)]

(5)如是我聞

 あらためて『阿弥陀経』のはじめを見ますと、こう書いてあります。釈尊が舎衛国(コーサラ国)の祇園精舎におられたとき、釈尊は誰からも問われていないのに、とつぜん舎利弗に語り始めるのです、「これより西方、十万億の仏土を過ぎて云々」と。これは釈尊が「舎利弗よ、わたしはこんなふうに聞いたのだが」と語り始めたということで、釈尊自身の「如是我聞」です。
 釈尊出世の本懐は、彼自らつかみ取った無我の真理を衆生に説くことにあるのではなく、弥陀から聞かせてもらった本願を衆生に説くことにあるのです。
 さて仏弟子にとっての過去仏は釈尊ですが、釈尊にとっての過去仏は弥陀でした。弥陀から聞かせてもらえた本願を釈尊は仏弟子たちに語り伝えてくれたのですが、では弥陀はどうなるのでしょう。仏弟子は過去仏の釈尊から本願を聞かせてもらい、釈尊は過去仏の弥陀から本願を聞かせてもらうとしますと、では弥陀は?
 本願を立てたのが弥陀(因位の法蔵菩薩)であることは当然のことで、浄土の教えのすべてがそのことの上に成り立っています。それを認めなければ一切が瓦解すると思われますが、さあしかし、仏弟子には釈尊という過去仏がいたように、釈尊には弥陀という過去仏が存在し、そして本願はそこから始まるとしますと、釈尊のときのアポリアが今度は弥陀において繰り返されることになります。
 弥陀を何か絶対的な存在としてしまえば話は別ですが(それはしかし仏教を非仏教化することです)、弥陀も元はわれらと同じ人間である限り、無我という真理を自らつかむことはできないはずです。とすれば弥陀にもまた過去仏がいなければなりません。弥陀もまたその過去仏から本願をきかせてもらい、そしてその過去仏にもまた過去仏がいてとなりますと、どこまでも際限がなくなります。

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