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久遠の過去仏 [『一念多念文意』を読む(その98)]

(6)久遠の過去仏

 このように見てきますと、阿弥陀仏とは一個の仏というよりも、過去仏の総称というべきではないでしょうか。釈迦仏には過去仏がいなければならず、その過去仏にもまた過去仏がいなければならないことの象徴として阿弥陀仏がいるのではないか。阿弥陀とはアミターユスの音訳で無量寿と意訳されます。際限なく過去に遡ることのできる仏、それが阿弥陀仏です。
 釈尊出世の本懐は弥陀から伝えられた本願を衆生に説くことにあるのでした。としますと、釈尊と弥陀とは限りなく一体化し、釈尊も過去仏の総称としての弥陀に吸収されてしまいそうです。かくてわれらは久遠の過去仏である弥陀の本願を聞かせてもらっているということになります。
 さてしかし、久遠の過去仏とはいったい何か。
 ここで再び先回の大胆な話に戻りたいと思います、「弥陀の本願というのは死者たちの声ではないか」という話です。これには戸惑いの声が出るに違いありません。死者を仏と同一化することに違和感を覚えるのは当然です。仏といえば、釈迦仏、阿弥陀仏、薬師仏など特別な存在で、それを死者一般と同一視するのはどうしても抵抗があります。
 しかし仏の原義に立ち返りますと、「われ」への囚われ、「わがもの」への執着から離れた人を仏と呼ぶのでした。
 われらは、「われ」に囚われ、「わがもの」に執着していることを仏に気づかせてもらうことができるだけで、自らそこから離れることはできません。でも、それに気づかせてもらうことで、そこから離れることはできないにしても、離れたにひとしくなれる。仏になることはできないが、仏にひとしくなれるのです。

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