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すでに仏にひとしいのだから [『一念多念文意』を読む(その100)]

(8)すでに仏にひとしいのだから

 しかし信心や念仏は本願に何かを加えるものではないと説いたのが親鸞でした。弥陀の本願は何かを加えなければならないような不完全なものではないと。本願は「一切衆生の成仏を願う」のですから、成仏できる人とできない人がいるのでは本願に反します。やはり信じる、信じない、念仏する、しないにかかわらず、誰もみな仏となるのでなければなりません。としますと信心や念仏とは何か。
 それは本願に気づくということです。
 信心しようがしまいが、念仏しようがしまいが仏になれるのです。でも、信心せず念仏しないということは、それに気づいていないということです。本願を信じるというのは、「帰っておいで」という本願の声に気づくということで、念仏するというのは、その声に思わず応答することです、「はい、ただいま」と。そして、それが仏にひとしくなるということです。正定聚になるということです。
 逆に、本願の声に気づきませんと、すでに仏にひとしいことにも気づきません。もう正定聚であるにもかかわらず、それを喜べないのです。本願を信じるか、念仏するかは大きな分かれ目ですが、しかし、信じようが信じまいが、念仏しようがしまいが、みな仏になることに違いはありません。いかがでしょう、死んだらみな仏になることにまだ抵抗は残るでしょうか。
 こう言われるかもしれません、死んだあとどうなるかなんて分からないと言ったばかりじゃないか、その舌の根も乾かないうちに、どうしてみんな仏になると言えるのか、と。おっしゃるとおり、死んだあとどうなるかなんて分かるはずがありません。はっきりしているのは、「一切衆生を成仏させたい」という仏の声が聞こえるということだけ。それだけでもう仏にひとしくなれるのですから、死んだあと地獄行きだとしても、あるいはまったき無だとしても、それはそれでかまわない。

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