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「念仏によって」ではなく「念仏がそのまま」 [『一念多念文意』を読む(その110)]

(2)「念仏によって」ではなく「念仏がそのまま」

 法然が四十三歳のときこれに出会い、専修念仏に目覚めたとされる因縁の文章、「一心専念弥陀名号、行住座臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故(一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに)」(善導『観経疏』「散善義」)について親鸞が丁寧に注釈してくれます。
 隆寛がこの文章を「多念」の根拠とするのは自然ですが、ただ「行住座臥、時節の久近を問はず」念仏することをどう受けとめるか。そうすることが往生への唯一の道であることは間違いないとしても、そこに微妙な解釈の違いが生じてきます。
 「行住座臥、時節の久近を問はず」念仏すること「によって」往生することができるのか、それとも「行住座臥、時節の久近を問はず」念仏すること「がそのまま」往生することであるのかということ。
 親鸞はいろいろな場所で、「によって」ではなく「がそのまま」であると言おうとして苦労していますが、ここでは「弘誓を信ずる〈を〉報土の業因とさだまる」といった言い回しにそれが伺われます。
 弘誓を信ずること「により」往生が定まるとは言わず、弘誓を信ずること「を」もって往生が定まると言うのです。この「を」は、信ずること(そして念仏すること)が、そのまま往生が定まることに他ならないと言おうとしている違いありません。
 これは道元でしたら「修証一等(しゅしょういっとう)」ということになるでしょう。第3回のところでもふれましたが、『正法眼蔵』「弁道話」に興味深い話が出てきます。

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