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煩悩をじっと見つめる [『一念多念文意』を読む(その115)]

(7)煩悩をじっと見つめる

 煩悩とは「わがもの」への執着のことです。この執着があるから、さまざまな苦しみが生じるのはまったくその通りですが、しかしそこから、苦しみをなくすためには「わがもの」への執着をなくさなくてはならないと言われたら、途方にくれるしかありません。それは生きることから降りることを意味するからです。
 煩悩は「原因として」苦しみを引き起こしているのではなく、それに「縁って」苦しみが生まれているのです。それは苦しみの根もとにどっかり居座っています。なるほど煩悩をなくしてしまえば、苦しみも当然なくなりますが、それと一緒に生きることのすべてが洗い流されてしまいます。ではどうすればいいのか。どうするも、こうするも、ただ苦しみの根もとにある煩悩をじっと凝視するしかありません。
 ぼくらはともすると煩悩から目をそむけてしまいます。目隠しして見えないようにするのです。自分の中にそんなものが渦巻いているのは認めたくないからです。そうすることで表面的にはこころの安定が保たれるようですが、それは自分を誤魔化しているだけですから、事態は何も変わりません。そして、どれほど自分を誤魔化して見ないようにしても、ついには煩悩を目の前に突きつけられるときがきます。
 道元におもしろいことばがあります。『正法眼蔵』「三十七品菩提分法」の巻で、「五力」のはじめに「信力」を説く中で、こう言っているのです。「信力は、被自瞞無廻避処(みずからに瞞されて、廻避のところなし)なり、被他喚必廻頭(他に喚ばれて、かならず頭を廻らす)なり」。例によってよく分かりませんが、あきらめずにじっと見つめていますと何かが伝わってきます。

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