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他力の真実 [『一念多念文意』を読む(その116)]

(8)他力の真実

 増谷文雄氏は前半の「信力は、被自瞞無廻避処(みずからに瞞されて、廻避のところなし)」を「信の力というものは、自分じしんに騙されて、もう遁げるところがないといったところ」と訳し、「騙したのがほかならぬ自分だから避けようもないというのである。いささか諧謔をまじえて信を語っているのである」と解説しているのですが、これではよく理解できません。
 もっと素直に、自らをごまかして信じないようにしようとしても逃げおおせるものではない、と解釈した方がすっきりするのではないでしょうか。そんなこと信じるもんかと逃げ回っても、ついには信じさせられてしまうということです。そうすることで後半の「被他喚必廻頭(他に喚ばれて、かならず頭を廻らす)なり」も、ふと呼びかける声が聞こえて頭を廻らすとなり、これはまさに他力の真実を言っていると理解することができます。
 禅といえども、信を語ろうとしますと、おのずから他力にならざるをえないのは興味深いと思います。
 原因・結果と縁起とは別ものであることを見てきました。それを坐禅と悟り、あるいは念仏と往生の関係で言いますと、坐禅あるいは念仏が「原因となって」、悟りあるいは往生が得られるのではなく、坐禅あるいは念仏に「縁って」、悟りあるいは往生が起こるということです。そして「Aに縁ってBが起こる」とは「AがそのままBである」ということに他なりません。坐禅することがそのまま悟りを得ることであり(修証一等)、念仏することがそのまま往生することです(即得往生)。
 冒頭に戻りますと、「行住座臥、時節の久近を問はず」念仏すること「によって」往生することができるのではなく、「行住座臥、時節の久近を問はず」念仏すること「がそのまま」往生することなのです。

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