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『一念多念文意』を読む(その117) ブログトップ

本文15 [『一念多念文意』を読む(その117)]

(9)本文15

 一念多念のあらそひをなすひとおば、異学(いがく)・別解(べつげ)のひととまふすなり。異学といふは、聖道(しょうどう)・外道(げどう)におもむきて、余行を修し、余仏を念ず。吉日良辰(きちにちりょうしん)をえらび、占相祭祀(せんそうさいし)をこのむものなり。これは外道なり。これらのひとはひとへに自力をたのむものなり。別解は、念仏をしながら、他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり。解はさとるといふ。とくといふことばなり。念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆへに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなわち自力をはげむひとなり。自力といふは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ。わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

 (現代語訳) 一念多念の争いをする人を、異学の人、別解の人ともうします。異学の人と言いますのは、聖道門や仏教以外の教えに従って、念仏以外の修行をしたり、阿弥陀仏以外の仏を念じたりする人です。日の良し悪しを選んだり、占いや神々をお祭りすることを好む人です。これは仏教以外の教えに従う人です。このような人たちは、ひたすら自分の力をたのみとする人たちです。一方、別解の人とは、念仏をするのですが、他力をたのまない人です。別と言いますのは、ひとつのことを二つに分けるということばです。解とは「さとる」ということ、「解く」ということばです。念仏をしながら、自力で悟ろうとするのです。ですから、別解と言うのです。また念仏以外のさまざまな業を好む人は、自力を励む人に他なりません。自力と言いますのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることです。またわが力を励み、己のさまざまな善根をたのみとする人です。

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