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どこかから聞こえてきたことば [『一念多念文意』を読む(その121)]

(13)どこかから聞こえてきたことば

 ぼくらはともすると自力から離脱できるかのように思うところがあります。しかし、自力から離脱しようと思うことはできても、そう思うのも所詮自力です。先ほどの、私的所有の観念は資本主義に毒された思想であるというのも、私的所有の観念から離脱できるという発想です。私的所有という歪んだ思想を矯正することで、あるべき無所有の観念に到達できるというのですが、「わがものがない」という観念をどのようにして「わがもの」にするのでしょうか。
 かくして、誰ひとりとして、いかなる条件もなくすべての人が救われるとは言えないということになりますが、ではあの晴佐久昌英氏のことばはどうなるのでしょう。彼はこころにもないウソを言っているのでしょうか。そうではないと思います。ぼくはかれのことばに「これはほんものだ」と感じましたが、この感覚に間違いはないと思います。としますと、考えられるのはただひとつ。あのことばは晴佐久氏自身のことばではないということです。彼が言っているには違いありませんが、彼はどこかから聞こえてきたことばを受け渡しているだけということです。
 これが他力でしょう。自分が言うのではなく、ただ聞かせてもらうだけ。気がついたら聞こえていたというのが他力です。
 そこから彼の文章で少し気になるところがあります。それは「その救いを知って目覚めた人は喜ぶし、その救いを知らずにいる人は苦しんでいる」の「知る」という言い方です。知るということばをつかいますと、「わがみをたのみ、わがこころをたのむ」ところへ舞い戻ってしまう危険があると思うのです。いかなる条件もなくすべての人が救われると「知る」ことは「わがちから」によるでしょうから、知ることができる人とできない人の差が生じるからです。「知る」と「知らない」ではなく、「気づく」と「気づかない」の差と言った方がいいのではないでしょうか。

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