So-net無料ブログ作成
『一念多念文意』を読む(その125) ブログトップ

本文17 [『一念多念文意』を読む(その125)]

(3)本文17

 しかれば『大経』には、「如来所以興出於世(にょらいしょいこうしゅつおせ)、欲拯群萠(よくじょうぐんもう)、恵以真実之利(えいしんじつしり)」とのたまへり。この文のこころは、「如来」とまふすは、諸仏をまふすなり。「所以」は、ゆへということばなり。「興出於世」といふは、仏のよにいでたまふとまふすなり。「欲」は、おぼしめすとまふすなり。「拯」は、すくふといふ。「群萠」は、よろづの衆生をいふ。「恵」は、めぐむとまふす。「真実之利」とまふすは、弥陀の誓願をまふすなり。
 しかれば、諸仏のよよにいでたまふゆへは、弥陀の願力をときて、よろづの衆生をめぐみすくはむとおぼしめすを、本懐とせむとしたまふがゆへに、「真実之利」とはまふすなり。しかれば、これを諸仏出世の直説とまふすなり。おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門という。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部にときたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり。これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海におしへすすめいれたまふがゆへに、よろづの自力の善業おば、方便の門とまふすなり。
 いま一乗とまふすは本願なり。円融とまふすは、よろづの功徳善根みちみちてかくることなし、自在なるこころなり。無碍とまふすは、煩悩悪業にさえられず、やぶられぬをいふなり。真実功徳とまふすは名号なり。一実真如の妙理円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまふなり。一実真如とまふすは無上大涅槃なり。涅槃すなわち法性なり。法性すなわち如来なり。宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さはりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。
 この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆへに、報身如来とまふすなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏ともまふすなり。この如来を方便法身とはまふすなり。方便とまふすは、かたちをあらわし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふをまふすなり。すなわち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ、不可思議光仏とまふすなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆへに、無辺光仏とまふす。しかれば、世親菩薩は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。

 (現代語訳) ところで『大経』には「如来、世に興出するゆゑは、群萠を拯(すく)ひ恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」ととかれています。この文の意味は、「如来」とは諸仏のことです。「所以」とは、「ゆえ」ということです。「興出於世」とは、仏が世にお出ましになるということです。「欲」は、「思われる」ということ。「拯」は「すくう」ということ。「群萠」は、すべての衆生のことです。「恵」は「めぐむ」ということ。「真実之利」とは、弥陀の誓願のことです。
 ですから、諸仏がこの世にでられるのは、弥陀の本願の力を説いて、すべての衆生を恵み救おうとされるのを本懐としているのですから、それを「真実の利」を恵むと言うのです。という訳で、これを諸仏が世に出られた本懐と言うのです。およそ八万四千もの教えは、みな浄土の教えのための方便としての善です。これらを要門とも、仮門とも言います。この要門・仮門と言いますのは、『観経』に説かれています定善・散善のことです。定善と言いますのは、心を集中して行う十三の観法で、散善と言いますのは、心が集中しないまま行う三種類の行であり、九品に分かれる種々の行者が行う諸善のことです。これらはみな浄土の教えへと導くための方便の教えで、要門とも仮門とも言います。この要門・仮門から、すべての衆生をすすめ導いて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海へと入れていただくのですから、これらの自力の善業を方便の教えというのです。
 ここで一乗と言いますのは、本願のことです。円融と言いますのは、あらゆる功徳や善根がこの中に満ちて欠けるものはありません。そして自由自在に心が動くからです。無碍と言いますのは、どんな煩悩・悪業にも妨げられず、破られないからです。真実功徳と言いますのは、名号のことです。このように、名号には一実真如のすぐれた理が満ちていますから、これを大宝海にたとえているのです。一実真如と言いますのは、この上ない涅槃のことで、涅槃はすなわち法性、法性はすなわち如来です。宝海と言いますのは、あらゆる衆生をえり好みすることなく、何の障害もなく、平等に導いてくださることを、大海の水がすべての水を隔てなく受け入れていることになぞらえているのです。
 このかたちのない宝海からかたちを現して、法蔵菩薩が名乗りを上げられ、無碍の誓いを立てられたことが種となり、阿弥陀仏となられたのですから、報身如来と言うのです。この仏を尽十方無碍光仏とお呼びします。また南無不可思議光仏とも申します。この仏を方便法身とも言います。方便と言いますのは、かたちを現し、御名を示して、衆生に知らせようとされているからです。これがつまり阿弥陀仏です。この如来は光明です。光明とは智慧です。智慧とは光のかたちです。智慧にはかたちがありませんから、不可思議光仏と申します。またこの如来は十方のあらゆる世界に満ち満ちておいでですから、無辺光仏とも申します。こんな訳で、世親菩薩はこの仏を「尽十方無碍光如来」と名づけられたのです。

『一念多念文意』を読む(その125) ブログトップ