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『一念多念文意』を読む(その126) ブログトップ

みな方便の教え [『一念多念文意』を読む(その126)]

(4)みな方便の教え

 長い文を一気に読みました。ここで論じられているのは「真実と方便」、あるいは「真と仮」についてです。
 隆寛が『法事讃』の文「上尽一形至十念三念五念仏来迎、直為弥陀弘誓重、致使凡夫念即生(上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。ただちに弥陀の弘誓重なれるをもって、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す)」を引用したのは「多念をひがごととおもふまじき」ことを言おうとしてのことです。
 しかし親鸞はその文に関連するものとして、『大経』の「如来所以興出於世、欲拯群萠、恵以真実之利(如来、世に興出するゆゑは、群萠を拯ひ恵むに真実の利をもってせんと欲してなり)」という文を引き、もはや一念多念という個別問題を突き抜けて、本願に関わる根本問題に論じ及んでいるのです。
 親鸞のこころの動きを忖度しますと、『法事讃』の文にある「直」という語から「直説」ということばが浮かび(親鸞は『阿弥陀経』が「無問自説」であることに注目したのでした)、そこからさらに「如来出世の所以」へと思いが及ぶに至り『大経』の文を引いたのでしょう。
 そしてこの文を解説する中で、親鸞はたいへん大胆なことを言います。「弥陀の願力」を説いて衆生を救うことが諸仏出世の本懐だから、「おほよそ八万四千の法門(釈迦の説かれたすべての教え)は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門という。これを仮門となづけたり」と。仏教の真の教えは浄土門であり、他の自力聖道門はすべて浄土門へと導くための方便の教え、仮の教えにすぎないというのです。
 この言い方は、天台・真言をはじめとする聖道門の人たちにとってたいへん耳障りなものでしょう。法然に劣らず、仏法の怨敵と罵られても仕方がないと思われるような奔放さです。

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