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『一念多念文意』を読む(その127) ブログトップ

浄土の教えもまた方便 [『一念多念文意』を読む(その127)]

(5)浄土の教えもまた方便

 しかし、ここで親鸞が言っていることをよく聞きますと、「かたち」あるものは否応なく方便とならざるをえないということではないでしょうか。その意味では、浄土の教えも方便にすぎないのです。それは「この如来(阿弥陀如来)を方便法身とはまふすなり。方便とまふすは、かたちをあらわし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふをまふすなり」というところに端的に現われています。
 法蔵菩薩も阿弥陀仏も方便なのです。
 そういう眼で改めて読み直してみますと、この文は一貫して「かたち」ということばが鍵となっているような気がします。「尽一形」の「形」はそのままですが、これは「いのちおはらむまで」という意味で、いのちは「かたちをとってあらわれたもの」であることが意識されているようです。
 さらに「直為弥陀弘誓重」の「為」について、さまざまな意味を上げる中に「あふ(遇ふ)」という思いがけないことばが出てきまして、「あふといふは、かたちといふこころなり」と言われます。弘誓という語から「あふ」が頭に浮かび、さらに「あふ」ためには「かたち」をとっていなければならないというように思いが動いたのではないでしょうか。
 そして「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふ」に至ります。
 『唯信鈔文意』にもこの言い回しとそっくりな表現がでてきます。「この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまふ」とあり、瓜二つです。この一如は「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり」で、そのような混沌としたところから「かたちをあらわして」出てきたのが法蔵比丘だというのです。

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