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無我ということ [『一念多念文意』を読む(その129)]

(7)無我ということ

 そこで無我を取り上げてみましょう。これを仏教の真理とすることに異論はないでしょう。で、この真理に直接アクセスできるかどうかを実際にためしてみようと思うのです。無我とはアナートマンの漢訳で、「アートマンはない」あるいは「アートマンではない」という意味です。アートマンとは古代インドのウパニシャッド哲学の用語で、一貫して変らない「われ」を指します。
 昨日のぼくと今日のぼくとでは、いろいろな点で変化しています。風呂に入り頭を洗いましたから、なけなしの髪の毛がさらに減ったことでしょう。顔をこすりましたから、古い表皮がはがれたでしょう。昨日はへこんでいた気持ちが、今日は元気を取り戻しています。一年前のぼくと今のぼくとでは、もっと大きく変化しています。しかし、昨日のぼくも今日のぼくも同じぼくですし、一年前のぼくも今のぼくも同じ浅井勉という人間です。
 これがアートマンです。
 さて釈迦はこのアートマンを否定するのです。そんな一貫して変らない「われ」などどこにも存在しないと言います。釈迦は、ありもしない「われ」があると思うところからさまざまな苦しみが生じてくるのだと言うのです。
 ぼくらの苦しみの元をたどっていきますと「これはぼくのものだ」という思いに至ります。そこから貪欲、瞋恚、愚痴が生まれ、それが苦しみをもたらしているとするのですが、この「これはぼくのものだ」は、一貫して変わらない「ぼく」があるからこそ意味を持ちます。もし昨日のぼくと今日のぼくがまったく別存在だとしますと、昨日のぼくのものは、今日のぼくのものではなくなり、もはや「ぼくのもの」など存在しないということになります。

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