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「われがない」へはアクセスできない [『一念多念文意』を読む(その130)]

(8)「われがない」へはアクセスできない

 この論理の運びはきわめて明快ですが、問題は肝心の無我です。「われがない」という真理にどうアクセスすればいいのか。ここには何ともならない自家撞着があるのではないでしょうか、「われがない」ということに「われ」がアクセスしようとするのですから。
 それとも「われがない」というときの「われ」と、それにアクセスしようとする「われ」は別ものでしょうか。前者はウパニシャッド哲学でいうアートマンで、後者はそれとは異なる日常の「われ」という可能性です。ウパニシャッド哲学の「われ」は永遠不滅の霊魂といったものですから、そんなものは存在しないと日常の普通の「われ」が言っているのだとしますと、それは問題ないでしょう。
 しかし釈迦が問題とするのは、昨日のぼくと今日のぼくは同じぼくというときの日常の普通の「われ」で、形而上学的な「われ」ではありません。
 日常の「われ」が「ぼくのもの」という思いの元にあり、さまざまな苦しみの根源となっているのです。そして「われがない」という真理にアクセスしようとする「われ」もまた日常の普通の「われ」です。ごく普通に自分はいると思っているその自分です。自分はいると思うとき、その自分は継続的に存在するのは言うまでもありません。あるとき突然あらわれたと思ったら、その直後に消えてしまうような存在ではありません。
 さて、同一のものとして持続する「われ」は存在しないという真理に、そのような「われ」がアクセスしようとするのは、どうしょうもない自家撞着です。たとえて言えば「ことばなどというものは存在しない」とことばで言うようなものです。やはり「無我」という真理にアクセスすることはかないません。しかしアクセスできないような真理があるなどと言うことができるのでしょうか。

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