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己れをじっと見つめる [『一念多念文意』を読む(その135)]

(13)己れをじっと見つめる

 どうして定散二善を説くことが人々を本願海へ導くことになるのかといいますと、どれほど「諸悪莫作、衆善奉行」に励もうとしても、それが真剣であればあるほど、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」(善導『観経疏』)と痛感せざるをえず、そうして、その悲しみのなかではじめて真実の声が聞こえるからです、「かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受(しょうじゅ)してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をう」(同)と。
 「わがものに執着するなかれ」に戻りますと、そう言われて必死に努力すればするほど目の前に「どこまでもわがものに執着している己れ」が突きつけられ、打ちひしがれざるをえません。そして「わがものに執着することから離れようとしてもできない自分であること」、「そのような自分であるがためにさまざまな苦しみに見舞われなければならないということ」をじっと見つめることになります。そのときです、「われがない」、「わがものもない」という真実の声が向こうから聞こえるのは。
 「われがない」、「わがものがない」という声が聞こえたからといって、「わがもの」への執着がなくなるのではありません。聞こえていなかったいままでと変わらず「わがもの」に執着しています。本願の声が聞こえたからといって「罪悪生死の凡夫」でなくなるわけではないのと同じことです。
 ただ、「わがもの」に執着している自分への眼差しが微妙に変化しているのに気づきます。これまでは「わがもの」に執着していることを何とも思っていなかったか(当たり前のことと思っていたか)、それとも、執着から離れようと躍起になっていたか、そのどちらかです。しかし、「われはない」、「わがものはない」の声が聞こえますと、そのどちらでもなくなるのです。

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