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念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき [『一念多念文意』を読む(その147)]

(10)念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき

 では「念仏をまうせば」や「信楽すれば」の方は何を言い表しているのでしょうか。「もうすでに念仏していますので」あるいは「もうすでに信楽していますので」仏になりますというのはどういう意味でしょうか。ここで『歎異抄』第1章の「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」という一文を参照したいと思います。
 この「をこるとき」は、「をこれば」(「をこらば」ではありません)と言い換えても、ほぼ同じ意味になるでしょう。
 この文は、念仏しようと思い立ったときには、すでに摂取不捨にあずかっているのですという意味です。念仏しようと思いなさい、そうすれば摂取不捨にあずかれますということではありません。もし後者のように、「念仏しようと思うならば」の意味でしたら、その念仏は自力の念仏であり、念仏することが摂取不捨にあずかるための条件になることは繰り返すまでもないでしょう。
 この文の「すなはち」は「ただちに」では生ぬるく、むしろ「もうすでに」の意味と解すべきです。つまり念仏しようと思い立つことにより、「これから」摂取不捨の利益にあずかるのではなく、念仏しようと思い立ったときには、「もうすでに」摂取不捨の利益にあずかっているのです。
 では、念仏しようと思い立つことが摂取不捨の条件でないとしますと、それはいったい何なのか。答えはただひとつ、もうすでに摂取不捨の利益にあずかっていることに「気づいた」ということに他なりません。「あゝ、もう摂取されているのだ」と気づいたことが、念仏しようと思い立つことなのです。
 このように理解してきますと、『歎異抄』第1章の文は、その末尾「あづけしめたまふ」の後に、さらに「と気づくなり」を補うことで、文意がより鮮明になるのではないでしょうか。「念仏まうさんとおもひたつ」ということは、取りも直さず、すでに「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」ことに気づくことなのだと。

タグ:親鸞を読む
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