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ひとりの例外もなくみんな [『一念多念文意』を読む(その148)]

(11)ひとりの例外もなくみんな

 かなり手間取りましたが、信心も念仏も仏になることの条件ではなく、仏になることの気づきに他ならないことを見てきました。信心をすることで仏になるのではありません、念仏することで仏になるのでもありません。信心をすることや、念仏することは、「もうすでに」仏になることが約束されていることに気づいて喜んでいるのです。
 「信心のひとは、正定聚にいたりて、かならず滅度にいたる」という文も、その趣旨が歪んで伝わらないようにするためには、その末尾に「と気づくなり」を補うべきでしょう。「信心のひと」というのは、すでに「正定聚にいたりて、かならず滅度にいたる」ことに気づいているひとのことだと。
 かくして、いかなる条件もなく「正定聚にいたりて、かならず滅度にいたる」ことができるのですから、それは特別な人ではなく、ひとりの例外もなく「みんな」ではないでしょうか。ただそのことに気づいていないひとがいます。気づかなくても「正定聚にいたりて、かならず滅度にいたる」のは変わりないのですが、それに気づきませんと、「正定聚にいたりて、かならず滅度にいたる」ことの喜びを知らないままこの苦悩の人生を過ごさなければなりません。「みんな例外なく正定聚である」ことと「そのことに気づいたひとと気づいていないひとがいる」ことがごっちゃになると話が迷走してしまいます。
 東宮というのは特別な人がなれるだけですが、正定聚はみんなが分け隔てなくなれるというところにもういちど戻ります。
 特別な人だけが東宮になれるということは、東宮になるにはさまざまな条件があるということで、一方、誰でもみんな正定聚になれるということは、正定聚になるのに何の条件もないということです。この条件があるとないとの違いが、のちに東宮が王になることと、正定聚が仏になることとの間に微妙な差をもたらします。

タグ:親鸞を読む
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