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おたまじゃくしは蛙の子 [『一念多念文意』を読む(その149)]

(12)おたまじゃくしは蛙の子

 東宮は王になることが約束された位ですから、もう王にひとしいと言うこともできますが、しかし東宮になるについてさまざまな条件があったように、王になるについてもまたいろいろな義務が課されることでしょう。東宮としての立場を立派にこなせたとみなされてめでたく王に即位することができるのであって、王になるのも無条件ではありません。
 一方、正定聚はといいますと、みんな無条件になるのですから、いや、もうすでにみんな正定聚になっているのですから、仏になるのももちろん無条件です。正定聚として落度なくすごせたから仏になれるというのではありません。もう何がどうなっても仏になることに決まっているのです。
 その意味では「おたまじゃくし」の譬えの方がいいのかもしれません。「おたまじゃくしは蛙の子」ですから、「おたまじゃくし」であるだけで蛙になることが約束されています。「おたまじゃくし」としての本分を尽くしたからめでたく蛙になれるのではなく、もう何がどうなっても蛙になることに決まっているのです。
 東宮にはまだ依然として疑いがつきまといますが、「おたまじゃくし」に疑いの余地はありません。東宮は、王になることが約束された地位にあるからといって、まだ気を抜くことはできません。どういう異変があって、東宮の地位から引きずりおろされるかもしれないからです。王宮における父王殺しは洋の東西を問いませんが、そうした疑心暗鬼が生み出す悲劇でしょう。
 しかし「おたまじゃくし」は安気なもので、自分が蛙になることに何の不安もありません。「おたまじゃくし」にとって、いますでに「おたまじゃくし」であることがすべてと言えます。正定聚も同じで、もうすでに正定聚であることに気づきさえすれば、仏になることに何の不安もありません。いや、いま正定聚であることは、もうすでに仏であることと変わりないのです。

タグ:親鸞を読む
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